史上最もイカれた二重スパイ「ガルボ」の伝説
第二次世界大戦の影には、世界を救った無数の英雄がいます。しかし、その中でもフアン・プホル・ガルシアほど破天荒でユニークな功績を残した人物はいないでしょう。
スペイン内戦の経験から全体主義を心底嫌悪したこの男は、当初イギリスのために働きたいと願いましたが、単なる一市民の彼の申し出はロンドンの大使館に門前払いされます。通常なら諦めるところを、プホルは歴史に残る「逆張り」を決断します。
「もしイギリスが私を必要としないなら、私はドイツに最高の情報源だと信じ込ませ、内側から奴らを破壊する」
こうして彼は、単なるアマチュアから、ナチス・ドイツの信頼を勝ち取り、イギリスの情報機関MI5に「ガルボ」というコードネームを与えられ、史上最大の欺瞞作戦を成功させる天才的な詐欺師へと変貌します。彼の功績の証として、敵対するナチス・ドイツから「鉄十字勲章」、そしてイギリスから「大英帝国勲章」を授与されたという事実は、彼がどれほど凄まじい「演技」を戦争中に繰り広げたかを物語っています。本記事では、この嘘で世界を救った男の規格外のエピソードと、その類まれなるプロファイルに迫ります。
🚪 門前払いから始まる「逆張り」スパイ活動:ナチスに潜り込んだアマチュアの挑戦

フアン・プホル・ガルシアは、スパイや軍人として訓練を受けた専門家ではありませんでした。彼は元々、鶏の飼育係やホテルの支配人など、様々な職を転々としてきたただのスペイン人でした。しかし、スペイン内戦で両陣営に徴兵され、その非人道性を目の当たりにしたことで、彼は心からファシズムと共産主義という全体主義を憎むようになります。
彼の最初の目標は、アドルフ・ヒトラー率いるナチス・ドイツを倒すため、英国の忠実なエージェントとなることでした。
- イギリス側の冷たい対応: 1940年、彼は妻と共にマドリードのイギリス大使館に接触し、スパイとして協力したいと熱心に訴えます。しかし、軍事訓練も経験もない彼の申し出は、「価値なし」と判断され、冷酷に拒否されます。
- 史上最大の「逆張り」: 拒絶されたプホルは、「価値がないなら、自分で価値を作り出せばいい」という破天荒な発想に転換します。彼は、熱狂的な親ナチス思想を持つスペイン軍将校を装い、ドイツ大使館に接触。すぐにエージェントとして採用され、「アラリック」というコードネームを与えられます。
ドイツからの最初の指令は「ロンドンに渡り、情報網を構築せよ」というものでしたが、プホルはロンドンではなく、親英的なポルトガルのリスボンに移動し、そこから架空のスパイ活動を開始します。このアマチュアの天才的な詐欺師のキャリアは、イギリスに門前払いされた失望と、ナチスを出し抜くという強烈な動機から始まったのです。
🎭 架空のスパイ網と天才的な捏造術:鉄道ガイドとニュースフィルムで作られた世界

フアン・プホルの最大の武器は、彼自身の類まれなる想像力と演技力でした。彼はポルトガルにいながら、ナチスに対してロンドンで活動しているかのような、詳細かつ信憑性の高い報告を送り続けました。
架空のエージェント27人の創造
プホルは、まるで小説を書くように、自分の架空のサブエージェントを次々と生み出しました。その数は最終的に27人を超え、それぞれに個性的な背景と情報収集ルートが設定されていました。
- 彼らが実在した証拠: あるとき、プホルは架空のエージェントの一人が「作戦遂行中に死亡した」と報告し、ナチスはプホルに対し、その架空の未亡人に対する年金の支払いを開始しました。ナチスが、彼の作り上げた存在しない人物とその家族のために金を支払うという事実は、彼の欺瞞の完全な成功を示しています。プホル自身も、その年金を自分の活動費や架空のエージェントの維持費に充てていました。
ポルトガル発の「イギリス情報」捏造術
彼はロンドンの街を歩いた経験がないにもかかわらず、本物のようなレポートを作成しました。彼の情報源は驚くほど原始的でした。
- 図書館と観光ガイド: 彼はリスボンの図書館で入手できる英国の旅行ガイドブック、鉄道の時刻表、そしてニュースフィルムや新聞の広告を情報源としました。
- 「スコットランドのワイン愛好家」逸話: ある報告書で、彼はスコットランドのグラスゴーにいるはずの部下からの情報として、「1リットルのワインのために何でもする男たちを見つけた」と記載しました。スコットランドで一般的なのはビールやウイスキーであり、「ワイン」という選択はイギリスの常識から外れていましたが、ドイツ側はその矛盾に気づくことなく、情報を信用しました。これは、ドイツの諜報機関がイギリスの文化や生活実態についていかに無知であったかを露呈しています。
- 経費のリアリティ: 彼はイギリスの鉄道ガイドの運賃を参考に、架空のエージェントたちの移動費や宿泊費を盛り込んだ詳細な経費報告書を提出し、ドイツからその費用を満額受け取っていました。
このあまりにもデタラメでありながら、詳細で情報量が多い報告書に、ついにイギリスのMI5が気づきます。彼らはプホルの報告の矛盾点の多さから「これはデタラメだが、ドイツがそれを信じているなら逆利用できる」と判断。1942年、プホルをロンドンに呼び寄せ、正式に二重スパイとして採用し、「ガルボ」というコードネームを与えたのです。
🎯 D-デイを勝利に導いた史上最大の「演技」:遅延報告と「正義の憤り」
プホル(ガルボ)の活動の集大成は、1944年6月6日の**ノルマンディー上陸作戦(D-デイ)**を成功に導くための大規模な欺瞞作戦「フォーティテュード作戦」でした。彼の役割は、ドイツ軍に連合軍の主力がノルマンディーではなく、ドーバー海峡を挟んだパ・ド・カレーに上陸すると信じ込ませることにありました。
偽装部隊FUSAGの存在証明
プホルは、連合軍が偽装のために作り上げた架空の兵団「FUSAG」(米第1軍集団)が、パ・ド・カレーへの侵攻準備を完了しているという情報を、彼の架空のエージェントたちを通してドイツに送り続けました。これには、空気で膨らませた偽の戦車や偽の無線通信など、連合軍のあらゆる欺瞞努力がプホルの報告によって肉付けされ、ヒトラーを含むドイツ上層部に深く刷り込まれました。
致命的な「遅延報告」のトリック
D-デイ当日の最も有名なエピソードは、彼の情報の送付タイミングに関するものです。
- エピソード: 連合軍がノルマンディーに上陸を開始した際、プホルは作戦の詳細な情報をドイツ本部に送りました。しかし、彼はMI5の協力のもと、その情報が上陸開始から数時間後に、あたかも通信の不具合やトラブルで遅れたかのように届くよう操作しました。
- 狙いと結果: この遅延報告は、ドイツにとって「情報が真実であったが、我々の通信網が脆弱だったために間に合わなかった」という認識を生み出しました。プホルの信頼度は微動だにせず、むしろ「彼は正確な情報を得られる最高の情報源である」と再確認させる結果となりました。
さらにプホルは、情報伝達が遅れたことについて、無線でドイツ側に**「正義の憤り」を爆発させるメッセージを送りました。彼は「これほど重要な情報が間に合わなかったのは、私のせいではない!私は命をかけて情報を提供しているのに!」と激しく訴えました。この熱演は、彼の忠誠心と献身**を裏付けるものとしてナチスに受け入れられ、彼への信頼は決定的なものとなりました。
ドイツ軍はノルマンディーに侵攻部隊が上陸した後も、プホルの「最終攻撃はカレーだ」という偽情報に縛られ、予備部隊を動かすのが大幅に遅れました。これは、連合軍の初期の脆弱な足場を守り、作戦を成功に導く決定的な要因となりました。
🎖️ 敵味方両方から勲章!二重スパイが手に入れた異例の栄誉

プホルがD-デイの欺瞞作戦で果たした役割は、数千人の命を救い、第二次世界大戦の勝利を早めたと評価されています。彼の「演技」がどれほど完璧だったかは、以下の事実が示しています。
- ナチスからの勲章: 1944年7月、D-デイのわずか1ヶ月半後、ナチス・ドイツの総統アドルフ・ヒトラーは、プホルに対し、最高の栄誉の一つである「二級鉄十字勲章」を授与しました。これは、彼が送った偽情報が、ドイツにとって「極めて正確で、惜しくも間に合わなかった」信頼できる情報源だと完全に信じられた結果です。
- イギリスからの勲章: その数ヶ月後、イギリス国王ジョージ6世は、彼に「大英帝国勲章(MBE)」を授与しました。
なお敵対する両陣営から最高レベルの勲章を同時に授与された人物は、歴史上プホル・ガルシアただ一人であるとされており、彼が史上最も成功した、そして最も異例なスパイであったことの揺るぎない証拠です。
なおドイツのベルト・トラウトマンもドイツから一級鉄十字章を、イギリスからは大英帝国勲章(OBE)を授与されています。
しかしトラウトマンは戦後サッカー界への貢献からの授与なので戦時に関する両陣営から授与されたプホルは異例中の異例といっていいでしょう。
👤 プロフィール:フアン・プホル・ガルシアの静かな戦後の人生
※プホル本人へのインタビュー動画
| 項目 | 詳細 |
| 本名 | フアン・プホル・ガルシア(Juan Pujol García) |
| 生没年 | 1912年2月14日 – 1988年10月10日 |
| 出身地 | スペイン・バルセロナ |
| 戦時中のコードネーム | ドイツ:アラリック(Alaric)、イギリス:ガルボ(Garbo) |
| 職業(戦前) | 様々(ホテル経営、鶏の飼育など) |
| 政治的信念 | 反全体主義(反ファシズム・反共産主義)の強い理想主義者 |
| 特筆すべき勲章 | ナチス・ドイツ「鉄十字勲章」、イギリス「大英帝国勲章(MBE)」 |
戦後の「偽装死」とベネズエラでの生活
大戦終結後、プホルは自身の安全を確保するため、MI5の協力のもとで自身の死を偽装します。
- 偽装死のエピソード: 1949年、彼はマラリアによりアンゴラで死亡したという偽の記録を作成し、世界から姿を消しました。
- 静かな隠遁生活: その後、彼はベネズエラの小さな町ラグニリャスに移住し、書店とギフトショップを経営しながら、30年以上にわたり静かに暮らしました。彼の戦後の生活は、戦時中の狂騒とはかけ離れた、平和で穏やかなものでした。
- 40年後の再会: 1984年、ノルマンディー上陸作戦から40周年を記念する式典に招待され、偽装死から35年後に公の場に姿を現しました。彼は、D-デイの生存者たちと共に祝賀会に参加し、多くのメディアの注目を集めました。
プホル・ガルシアの生涯は、軍事的な訓練や最新のテクノロジーではなく、**純粋な「意志」と「想像力」**が、いかに歴史の決定的な瞬間に大きな影響を与え得るかを示す、史上最もユニークなスパイ物語として語り継がれています。
📽️ 映画や小説にもなった天才的な「嘘」:ガルボの文化的遺産
フアン・プホル・ガルシアの「嘘で世界を救った」という途方もない実話は、史上最もユニークなスパイ物語として、多くの作家、歴史家、映画制作者の創造意欲を掻き立ててきました。彼の物語は、フィクションの世界においても、知性とユーモアに満ちたスパイ像の原型として語り継がれています。
🎬 ドキュメンタリー映画『GARBO THE SPY』
プホルの物語を追いかけた最も有名な映像作品が、2009年にスペインで製作されたドキュメンタリー映画です。
- 原題: 『Garbo: El espía que salvó el mundo』
- 英題: 『GARBO THE SPY』
この作品は、プホルの人生と、いかに彼がアマチュアから史上最も成功した二重スパイになったかを詳細に追っており、国際的な評価も得ています。彼の嘘の天才性、MI5との共同作業、そして戦後の「死からの復活」までを、歴史的な資料と関係者の証言を交えて描いています。
📚 ノンフィクションやフィクションへの影響
彼の功績は、ただの「英雄」ではなく**「天才的な詐欺師」**であった点にあります。このユニークな設定は、特にスパイフィクションにおいて、従来の肉体派とは異なる新しいタイプの主人公像を生み出すヒントを与えました。
- ノンフィクションの決定版: プホルの協力者だった元MI5(イギリス情報局保安部)のトーマス・ハリスらによって記録された**『スパイ・ガルボ』**などの書籍は、彼の作戦の全貌を明らかにし、世界中の戦史マニアに衝撃を与えました。
- アマチュア・スパイの原型: 軍事訓練や最新技術ではなく、想像力、演技力、そして書類仕事で敵を欺いた彼の姿は、「鶏飼いが世界を救う」という、プロではない等身大のヒーロー像の魅力を高めました。
フアン・プホル・ガルシアは、第二次世界大戦の勝利に貢献しただけでなく、その規格外の生き方によって、私たちに「真実」以上に「嘘」が強力な武器になり得ることを教えてくれた、生きた伝説なのです。


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