江戸時代に「島流し(流刑)」に処された罪人たちが、現地で一体何を食べていたのかをご存知でしょうか。テレビの時代劇や歴史小説では、荒波の寄せる孤島でガリガリに痩せ細り、飢えに苦しみながら死を待つような悲惨なイメージが強く描かれがちです。しかしその一方で、近年では「実は島流しの食事は意外と豪華だった」という説がメディアやYouTubeの解説動画などで取り上げられ、注目を集めるようになりました。
結論から言えば、この「豪華だった」という説も、「過酷で飢えに苦しんだ」という説も、どちらも歴史的な事実です。なぜなら、江戸時代の流刑地における「食」の現実は、罪人の身分、流される島、そして現地の厳格なルールによって、天国と地獄ほどの極端な格差が存在していたからです。
天国と地獄!流刑者の身分で決まる食事の圧倒的な格差
江戸時代の島流し(遠流・おんる)において、現地の生活水準や食生活を決定づけた最大の要因は、罪を犯す前の「元の身分」でした。当時は罪人であっても、その階級に応じた処遇を受けるのが大原則だったのです。
VIP流刑者が口にした白米と新鮮な魚介類
流刑に処された者のうち、政治闘争に敗れた公家や高位の武士、あるいは著名な知識人や僧侶などは、いわば「政治犯」であり、隔離されたVIPとして扱われました。彼らに対する処遇は非常に手厚いものでした。
例えば、関ヶ原の戦いで敗れて八丈島へ流された宇喜多秀家や、江戸時代後期の知識人たちの事例が有名です。彼らの元には、本土に残された裕福な親族や、彼らを慕う門人、あるいはかつての関係者から、定期的に大量の「仕送り」が届けられました。
仕送りの中身は、米や衣類、薬といった必需品だけにとどまりません。当時、島民にとっては超高級品であった醤油や砂糖、塩、そして現金を調達することが認められていたのです。こうしたVIPたちは、手に入れた豊富な資金力や本土の珍しい品物を利用して、現地で以下のような贅沢な食卓を囲んでいました。
- 精米された純白の白米
- 地元の漁師から買い付けた、獲れたての新鮮な魚介類
- 島で特別に飼育・捕獲された鳥肉
- 本土から運ばれた高級な調味料を使用した料理
八丈島に流された宇喜多秀家などは、実家である加賀前田家からの手厚い経済的援助が幕府公認で続けられたこともあり、当時の平均寿命を遥かに超える83歳まで、島で健やかに長生きしています。彼らにとっての島流しは、不自由な隔離生活ではあったものの、食の面においては決して飢えとは無縁の、むしろ本土の庶民以上に豊かな暮らしだったのです。
一般受刑者を待ち受ける雑穀と塩辛い汁物の現実
その一方で、博徒(ギャンブラー)や窃盗、重過傷、あるいは江戸の町で引き取り手のない「無宿人(むしゅくにん)」などが島流しになった場合、待ち受けているのは完全なる地獄でした。彼らには後ろ盾となる裕福な親族もおらず、仕送りなど一切期待できません。
公的に支給される最低限の糧米(合力米)はあるものの、それだけで満足な食事ができるわけではありませんでした。一般の受刑者たちが日々口にしていたのは、以下のような極めて質素、かつ粗末な食事でした。
- 白米の混ざらない、パサパサとした麦や粟、稗(ひえ)などの雑穀
- わずかな塩や味噌、あるいは現地の海水で味付けしただけの具のない汁物
- 島で採れる野生の芋類や、保存性の高い塩辛い魚の干物
このような食事では圧倒的に栄養が不足し、ビタミン欠乏症による脚気(かっけ)や皮膚病、消化器系の疾患に悩まされる受刑者が後を絶ちませんでした。さらに、天候不良によって本土からの定期船が途絶えたり、島全体が飢饉に見舞われたりした際には、仕送りのない一般受刑者から順番に餓死していくという凄惨な現実がありました。
労働の対価として食が保証された佐渡島の給食システム
島流しと一言で言っても、送られる場所によってその目的と性質は大きく異なっていました。その代表例が「佐渡島(さどがしま)」です。
佐渡島へ流される罪人は、主に民間の犯罪(窃盗や無宿人の取り締まりなど)によって捕まった者たちでした。幕府にとって彼らは、単に隔離する対象ではなく、貴重な「労働力」として位置づけられていたのです。
大長屋での共同生活と最低限の兵糧米
佐渡島に送られた罪人(特に水替人足などと呼ばれた過酷な排水作業に従事した者たち)は、「大長屋」と呼ばれる巨大な集合住宅に集団で収容されました。
ここは厳重に管理された監獄のような場所でしたが、労働力を維持するという目的があったため、皮肉にも「飢死」のリスクは伊豆諸島よりも低いという側面がありました。幕府の管理下において、彼らには日々の労働をこなすための最低限の食糧(米や味噌、塩など)が公的に保証されていたのです。
さらに、過酷な労働に対する見返りとして、わずかながら「日当(現金)」も支給されていました。受刑者たちはこの日当を貯めることで、長屋の近くにある商人から嗜好品を買い入れたり、食事にちょっとした副食を足したりすることが可能でした。
また、佐渡島への流刑は「終身刑」ではなく、罪の軽重に応じて「〇年」といった期限が内々に設けられているケースが多く、真面目に労働に励み、反省の色が見られれば、赦免(しゃめん)されて本土へ帰る道も残されていました。管理された過酷な労働環境ではありましたが、生存のための「食」という観点においては、システムとして最も安定していた流刑地と言えます。
伊豆諸島での過酷な食糧調達と自給自足の裏側
佐渡島が「労働の島」であったのに対し、八丈島や三宅島、新島をはじめとする「伊豆諸島」への流刑は、幕令に反した者や重犯罪者が送られる、期限のない「事実上の終身刑(生殺しの隔離)」でした。
この地では、佐渡島のような組織的な労働管理や給食システムは存在せず、上陸した瞬間から剥き出しのサバイバルが始まりました。
命がけの船旅と草履籤の逸話
まず、江戸から伊豆諸島への船旅自体が命がけでした。当時の粗末な木造船で黒潮の荒波を越えるのは想像を絶する過酷さであり、島に到着した時点で、体力の衰えた受刑者の多くが浜辺で力尽き、そのまま亡くなることも珍しくありませんでした。
こうして命からがら生き残って上陸した受刑者たちの身元の引き取りに関して、伊豆諸島には「草履籤(ぞうりくじ)」という奇妙な風習の俗説が残されています。
【草履籤の俗説】
新しい罪人が島に到着すると、島の住民たちが自分の名前を書いた草履を片方だけ浜辺にずらりと並べておく。受刑者は、その中から直感でいずれかの草履を拾って履き、役人の元へ向かう。すると、その草履に名前が書かれていた村人が、その受刑者を自分の家や管理下に引き取る責任を負う、というシステム。
この風習は、歴史的な正式記録としては確認されておらず、後世の創作や誇張が含まれる「俗説」である可能性が高いとされています。しかし、このような話が語り継がれる背景には、島民にとって「見ず知らずの罪人を引き取り、その食い扶持をどう確保するか」が、コミュニティ全体の死活問題であったという生々しい理由があります。
親族からの仕送りと技能で食いつなぐ家持ちの食事
伊豆諸島に上陸した受刑者は、現地での生活能力や経済力、身分に応じて、大きく「家持ち(いえもち)」と「小屋(こや)」の2つの階層に振り分けられました。
「家持ち」に分類されたのは、前述のVIPや、本土の親族から確実な仕送りがある者、あるいは医療、算術、読み書き、大工仕事などの「高い専門技能や教養」を持った一部のインテリ受刑者たちです。
彼らは島民に文字を教える寺子屋を開いたり、病人を診察したり、本土の進んだ農業技術や醸造技術を伝えることで、島民から深い尊敬を集めました。その見返りとして、島民から新鮮な野菜や魚、米などを「お礼」として受け取ることができたため、彼らの食卓は非常に安定していました。島民と良好なギブ・アンド・テイクの関係を築くことで、飢えをしのぐだけでなく、現地の有力者として地域に溶け込む者さえいたのです。
山菜を摘み、貝を拾う小屋のサバイバル飯
しかし、そのような恩恵にあずかれるのは、受刑者全体のごくごく一部に過ぎませんでした。特別な技能も持たず、本土からの仕送りも完全に途絶えている大多数の一般受刑者たちは、「小屋」と呼ばれる粗末な藁葺きのあばら家に押し込められ、文字通りの極限サバイバルを強いられました。
彼らには自ら耕すためのまともな農地も与えられず、島民の農作業や漁業の過酷な雑用を手伝うことで、ようやく「その日に余ったわずかなクズ野菜」や「売り物にならない小さな魚」を分けてもらえる程度でした。
そのため、日々の大半の時間は、命をつなぐための食糧探しの時間に費やされました。
彼らが口にしていたサバイバル飯の具体例は以下の通りです。
| 食糧の分類 | 具体的な調達内容と食事 |
| 野生の植物・山菜 | 山に入って採取するアシタバ(明日葉)やタラの芽、野生のノビル、ツワブキなどの山菜。これらを塩水で煮て食べた。 |
| 有毒植物の加工 | 飢饉の際には、そのままでは有毒なソテツ(蘇鉄)の実を、何度も水に晒して発酵させ、毒を抜いて澱粉(かゆ)にして口にした。手順を誤ると中毒死する危険な食事だった。 |
| 海岸での採取 | 満潮時に波打ち際に取り残された小さな小魚、岩肌にへばりついている小さな貝類(ミナやカサガイ)、海藻などを拾い集め、大鍋で煮込んでスープにした。 |
このように、小屋の受刑者たちの食生活は、「自然界から命がけで泥臭くかき集める」ことでしか成立しない、常に飢餓と隣り合わせの過酷なものでした。
海の恵みは網本のもの!漁業権を侵した罪人に下る恐怖の刑罰眉削

「目の前に豊かな海が広がっているのなら、魚を大量に釣ったり、潜ってアワビやサザエを捕ったりすれば、食うに困らないのではないか?」
現代の私たちはそう考えてしまいがちですが、当時の法社会において、それは絶対に許されない大罪でした。なぜなら、江戸時代の島々における海や沿岸部は、すべて現地の「網本(あみもと)」と呼ばれる有力者や、島民のコミュニティが代々所有する厳格な「漁業権(権利)」の塊だったからです。
仕送りのない貧しい受刑者が、飢えに耐えかねて勝手に海に入り、魚を釣ったり貝を採ったりすることは、島民の貴重な財産を盗む「密漁」とみなされました。このルールを破った罪人には、容赦のない凄惨な罰が待っていました。
密漁の代償と眉削の刑罰
許可なく海のサバイバルを行った受刑者が捕まると、「眉削(まゆずり)」という独自の刑罰に処されました。これは、文字通り受刑者の眉毛を刃物で剃り落とす、あるいは傷をつけて削り取るという肉体刑・羞恥刑です。
一見すると命に関わらない罰のように思えますが、当時の社会において眉を失うことは「私は泥棒(密漁者)です」という消えない烙印を顔面に刻まれることを意味しました。眉削を受けた受刑者は、それ以降、島民からさらに激しく忌み嫌われ、農作業の手伝いなどの仕事すら一切与えられなくなり、食糧調達の手段を完全に失うことになったのです。
1日雑穀おにぎり1個と水1杯の地獄の牢獄食
さらに、密漁を繰り返したり、島民に反抗したりした悪質な受刑者は、現地の劣悪な牢獄へと入牢させられました。この牢獄内で支給される「食事」こそが、本当の地獄でした。
牢獄での支給品は、「1日にたった1個の小さな雑穀のおにぎり」と、「お椀に1杯の水」だけでした。
これは人間が生命を維持するために必要な最低限のカロリーを大幅に下回っており、数週間も入牢すれば、確実に骨と皮だけの餓死寸前の状態に追い込まれました。あまりの飢えと喉の渇きの苦しさから、牢獄の中からは昼夜を問わず、受刑者たちの世にも恐ろしい呻き声や泣き叫ぶ声が響き渡ったといいます。
その声は、看守である見張りの役人たちにとっても精神的に耐え難いほどの恐怖であったため、役人たちは牢獄のすぐ近くで見張るのを止め、彼らの絶叫が物理的に届かない「遥か遠くの崖の上」から、遠目で牢獄を監視するようになったという、凄惨な逸話が残されているほどです。
餓死へのカウントダウン!最果ての地への島替えと御蔵島の現実
伊豆諸島における流刑システムの中で、最も恐れられていた究極の処罰が「島替え(しまがえ)」です。
これは、最初に流された島(八丈島や三宅島など、まだある程度のコミュニティや自然の恵みがある島)において、窃盗、暴力、密漁などの問題行動を繰り返し、「この島ではこれ以上更生させられない、管理しきれない」と判断された凶悪な受刑者に対する追加の刑罰でした。
島替えとは、現在いる島よりもさらに条件が厳しく、人口が極端に少ない、あるいは絶壁に囲まれて物流がほぼ存在しない「最果ての孤島」へと強制的に再移住させられることを意味します。伊豆諸島において、その最たる行き先が「御蔵島(みくらじま)」でした。
御蔵島は周囲を激しい断崖絶壁に囲まれており、船を接岸することすら困難な天然の要塞です。平地がほとんどないため農耕が極めて難しく、島民自身が日々の食糧を確保するだけで精一杯の環境でした。
そんな場所に、本土からの仕送りもなく、島民からの信頼もゼロの「問題を起こして追放されてきた罪人」が放り込まれるのです。島民たちが自分たちの取り分を削ってまで、罪人に食糧を分けるはずがありません。島替えを言い渡された受刑者は、現地に到着した瞬間から「合法的な餓死へのカウントダウン」が始まることを意味していました。実際、島替えを経験した受刑者の大半が、上陸後わずかな期間ののちに、飢えに苦しみながら息を引き取ったと記録されています。
飢餓が生んだ闇の私刑!島民による天狗の恐怖

しかし、受刑者たちが最も恐れていたのは、飢えによる餓死でも、役人による公式な処刑でもありませんでした。彼らが最も震え上がったのは、島民たちが自発的に行う闇の私刑、通称「天狗(てんぐ)」と呼ばれる恐怖の風習でした。
前述の通り、伊豆諸島の島民たちにとって、限られた食糧資源や農作物を奪い取っていく、あるいは地域の治安を脅かす一般受刑者は、いつ自分たちの命を脅かすか分からない「害獣」に近い恐怖の存在でもありました。
特に飢饉の年などは、生存の危機に瀕した島民たちの不満と恐怖が最高潮に達します。そこで、地域の防犯と食糧防衛のための「生存戦略」として、島民たちは結託して夜闇に紛れ、問題を起こす罪人の家や小屋を襲撃したのです。
島民たちは顔を隠し、罪人を捕らえると、生きたまま「簀巻き(すまき)」にして身動きを封じました。そして、人目のつかない荒磯の浜辺に生き晒しにし、凄惨な拷問と暴行を加えた末に、最後は海へと突き落として溺死させたのです。
翌朝、海に浮かんだ罪人の遺体を発見した島の役人は、それが島民による私刑(殺人)であることを百も承知していました。しかし、役人たちも少人数で多数の島民を管理している手前、島民全体を敵に回すわけにはいきません。また、厄介な罪人が処理された方が統治上都合が良いという本音もありました。
そのため、役人は島民を咎めることは一切せず、幕府への公的な報告書には決まってこう書き残しました。
「当該の受刑者、夜間に厳重な監視をかいくぐり、本土への無謀な逃亡(足抜け)を図った末、波にのまれて溺死いたし候」
島民たちはこの闇の制裁を、山の怪異になぞらえて「天狗にさらわれた」と呼び、役人もそれを見て見ぬふりで処理しました。食糧を巡る奪い合いが生んだ、流刑地における究極の闇の現実です。
まとめ:江戸時代の流刑における食が意味したもの
江戸時代の「島流し」における食事の全貌を振り返ると、そこには単なる「豪華」「過酷」という言葉だけでは片付けられない、当時の日本の厳格な身分制度と生存競争の縮図が見えてきます。
- 身分と資金があるVIP: 本土からの仕送りや知識の提供により、白米や新鮮な魚介類を食べる豊かな暮らし(天国)
- 後ろ盾のない一般罪人: 漁業権の壁に阻まれ、山菜やソテツで飢えをしのぎ、密漁すれば「1日おにぎり1個」の地獄(地獄)
歴史の教科書には載らない「食」という切り口から流刑地の現実を紐解くことで、当時の人々がどれほど厳格なルールの下で、そして命がけのサバイバルの生存戦略の中で生きていたのかが、生々しく浮かび上がってきます。現代の私たちが何気なく食べている日々の食事が、いかに恵まれたものであるかを、流刑地の歴史は静かに物語っているのかもしれません。


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