江戸時代の氷はどうやって運んだ? 冷蔵庫のない時代の保存方法や驚きの値段

文化・歴史

夏の暑い日、冷たい飲み物に氷を入れる。

今では当たり前のことですが、冷蔵庫も冷凍庫もなかった江戸時代、真夏の氷はいったいどうやって手に入れていたのでしょうか。

冬にできた氷を夏まで保存するだけでも大変そうなのに、遠く離れた場所まで運ぶとなれば、途中で溶けてしまいそうです。

ところが江戸時代には、金沢から江戸まで約480kmもの距離を、氷や雪を運んでいたという有名な話が残っています。

しかも、昔の氷は単に将軍や大名だけが楽しむものだったわけではありません。

雪国では、江戸時代の庶民が氷を購入して食べていた記録もあるのです。

ただし、ここで注意したいのが、「江戸時代」と「江戸という都市」では、氷の事情が違うということです。

雪が大量に降る地域と、夏に氷を手に入れるために遠くから運ばなければならない地域とでは、氷の価値も入手方法も異なっていました。

今回は、江戸時代の氷の運搬方法や保存の仕組み、当時の値段、実際の使い道、そして庶民も食べられたのかまで詳しく紹介します。

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江戸時代の氷はどうやって運んでいた?

現代の氷の輸送では、冷凍車などを使って氷が溶けないように温度を管理します。

しかし、江戸時代には冷凍設備などありません。

遠くへ氷を運ぶには、外の熱をできるだけ遮断し、溶けてしまう前に目的地へ届ける必要がありました。

そんな昔の氷の輸送で有名なのが、加賀藩の「加賀飛脚」です。

金沢から江戸まで約480km! 加賀飛脚による氷の輸送

江戸時代、加賀藩では冬に蓄えた雪や氷を、夏に江戸の将軍家へ献上していたと伝えられています。

旧暦6月1日は「氷の朔日(ひむろのついたち)」と呼ばれ、保存していた氷や雪を取り出す特別な日でした。

加賀藩では、この行事に合わせて将軍家へ雪氷を届けたとされています。

金沢から江戸までは、当時の街道で約120里。現在の距離にすると、およそ480kmです。

石川県トラック協会が紹介する伝承によると、加賀飛脚はこの距離を昼夜4日間で運んだといいます。

単純計算すると、1日あたり120km。

現代でも、歩いて移動するには何日もかかるような距離です。

もちろん、一人の飛脚が480kmを走り続けたと確認されているわけではありません。複数の人員が関わる運搬だったと考えられます。

また、加賀藩が献上していたのは、現代の製氷機で作るような透明な氷とは限りません。

冬に降った雪を保存し、固めた「雪氷」も利用されていたとされています。

ただし、この加賀飛脚の話には注意点があります。

北陸大学の研究論文『金沢「氷室」考』では、金沢から江戸への雪氷輸送について、詳しい実態を示す藩政史料が十分に確認できないことが指摘されています。

さらに、江戸にあった加賀藩の屋敷にも氷室が存在したため、江戸で保存した雪を献上に使った可能性も議論されています。

そのため、「金沢から江戸まで4日間で運んだ」という話は、当時の輸送事情を示す有名な伝承ではあるものの、すべてが確定した史実というわけではありません。

氷を溶かさないために使われた道具とは?

では、冷凍設備のない時代、どのように雪氷を運んだと伝えられているのでしょうか。

加賀藩の氷輸送に関する伝承には、桐で作られた二重の長持を使用したという話があります。

長持とは、衣類や道具を収納する大型の木箱です。

伝えられる方法では、雪氷をむしろで包み、さらに木箱の隙間に熊笹などを詰めて運んだとされています。

これは、現代のクーラーボックスと同じように、外からの熱が伝わりにくくするための工夫です。

木材やむしろ、植物の葉などを重ねることで、熱の移動を遅らせる効果が期待できます。

また、雪や氷は小さく砕くより、大きな塊のまま運ぶほうが有利です。

同じ重量であれば、大きな塊のほうが表面積の割合が小さくなり、一般に外気から熱を受けにくくなるからです。

ただし、こうした梱包方法も伝承に基づく部分があり、すべての輸送で同じ方法が使われていたと断定することはできません。

江戸に着くまでに氷はどれくらい溶けた?

どれほど工夫しても、真夏に氷を運べば、少しずつ溶けてしまいます。

では、金沢から江戸まで運んだ雪氷は、到着する頃にはどのくらい残っていたのでしょうか。

残念ながら、加賀藩の献上雪氷について、出発時と到着時の重量を比較できる確実な数字は確認できません。

しかし、江戸時代末期に天然氷の販売を事業化しようとした中川嘉兵衛には、驚くような失敗談が残っています。

1861年、嘉兵衛は富士山麓で氷を採取し、横浜へ運ぶことを試みました。

採取した氷をおがくずを詰めた木箱に入れ、馬で現在の静岡市にある江尻港まで運搬。

さらに、帆船を使って横浜まで輸送したのです。

ところが、出発時に約100トンあった氷は、横浜に到着したときには、わずか8トンになっていたといいます。

なんと、約92%もの氷が失われてしまったのです。

100kgの氷を運んでも、最後に残るのはたった8kgという割合です。

これでは、せっかく大量の氷を採取しても商売になりません。

もちろん、これは加賀飛脚とは時代も輸送方法も異なる事例です。

それでも、冷凍設備のない時代に氷を長距離輸送することが、いかに難しい仕事だったのかが伝わってきます。

冷蔵庫のない江戸時代、氷はどうやって作っていた?

そもそも、江戸時代の人々は真夏に使う氷をどこから手に入れていたのでしょうか。

当時は、機械を使って水を凍らせる技術がありませんでした。

そこで利用したのが、冬の寒さで自然にできる天然氷です。

寒さの厳しい地域では、冬に池や水面に張った氷を採取することができました。

また、雪の多い地域では、大量の雪を保存する方法もありました。

問題は、その氷や雪を夏まで残しておくことです。

夏まで氷を保存する「氷室」という施設

昔の人々が利用していたのが、「氷室(ひむろ)」と呼ばれる貯蔵施設です。

氷室には、地面に穴を掘ったものや、断熱性を考えて建てられた小屋など、さまざまな形式がありました。

冬の間に集めた雪や氷を大量に詰め込み、茅やわらなどで覆って保存します。

夏になれば外の気温が高くなるため、氷室の中の雪や氷も少しずつ溶けていきます。

それでも、直射日光や暖かい空気を避け、大量の雪や氷をまとめて保管しておけば、夏まで残すことが可能でした。

氷室の歴史は非常に古く、『日本書紀』にも氷室に関する記述があります。

平安時代には、宮中で夏に氷を食べる習慣も存在していました。

つまり、日本では機械による冷凍技術が誕生するはるか以前から、冬の氷や雪を夏まで保存する方法が利用されていたのです。

雪国ならどこでも氷が手に入った?

ここで気になるのが、雪国なら氷を簡単に手に入れられたのかということです。

確かに、江戸のような都市と比べれば、雪の多い地域には大きな利点がありました。

冬に雪や天然氷を大量に確保でき、遠く離れた地域から運んでくる必要がないからです。

ただし、雪国であっても、夏まで保存するための場所や管理は必要でした。

そのため、雪が降る地域なら誰でも無料で、好きなだけ夏の氷を使えたというわけではありません。

それでも江戸時代後期には、越後などの地域で庶民が氷を購入していた記録が残っています。

この地域による違いは、当時の氷の値段や食文化を考えるうえでも重要なポイントです。

江戸時代の氷は何に使われていた?

現代の氷といえば、冷たい飲み物やかき氷、食品の保存などを思い浮かべます。

では、江戸時代の人々は、苦労して保存した氷を何に使っていたのでしょうか。

用途は、身分や地域、時代によって異なっていました。

将軍や大名は氷を食べたり、食膳を冷やしたりしていた

江戸時代の氷で特徴的なのが、将軍家への献上や、季節の行事での利用です。

旧暦6月1日の「氷の朔日」には、冬から保存していた氷や雪を取り出し、夏の暑さをしのぐ風習がありました。

この行事は、古くは宮中で氷を食べていた習慣にもつながっています。

氷は実際に口にして涼を楽しむほか、食膳を冷やす目的でも使われていました。

1777年の加賀藩主・前田治脩の日記には、氷を食膳の冷却に利用したとされる記述があります。

ただし、具体的にどの料理をどのように冷やしたのかまでは明らかではありません。

また、将軍家へ献上された雪氷が毎回どのように消費されたのかについても、詳細は不明です。

当時の氷は、暑さをしのぐための食べ物であると同時に、季節の行事や贈答に用いられる特別な品でもあったのです。

江戸時代にもかき氷はあった? 越後の茶屋に残る記録

氷を削って食べる文化は、江戸時代よりもずっと古くから存在していました。

有名なのが、平安時代の清少納言が書いた『枕草子』です。

作中には、削った氷に「あまづら」と呼ばれる甘い蜜をかけた食べ物が登場します。

現代のかき氷にもよく似た食べ方です。

では、江戸時代にはかき氷は食べられなくなっていたのでしょうか。

実は、そんなことはありません。

江戸時代後期の書物『北越雪譜』には、越後の茶屋で削った氷を食べる様子が描かれています。

この書物を著した鈴木牧之は、越後の雪国の暮らしを詳しく紹介した人物です。

その中に、江戸から来た山東京水が、越後の茶屋で「雪の氷」を見つける場面があります。

店の主人は菜切包丁を使って氷を皿に削り入れ、きな粉をかけて出しました。

ところが、江戸から来た客には、氷にきな粉をかける食べ方が珍しかったようです。

そこで、きな粉をかけない氷をもう一皿注文し、今度は砂糖をかけて食べています。

つまり、江戸時代の越後には、包丁で削った氷にきな粉や砂糖をかけて提供する茶屋が存在していたのです。

しかも、この記録で面白いのは、江戸から来た人物が夏の氷を珍しがっていることです。

江戸という大都市と、雪が豊富な越後では、氷をめぐる事情が異なっていたことがうかがえます。

ただし、これは越後の茶屋での体験を記したもので、江戸市中の庶民がかき氷を一般的に食べていた証拠ではありません。

江戸時代にもかき氷は存在しましたが、全国どこでも気軽に食べられるものになったのは、もっと後のことでした。

医療や飲み物、食品の保存にも使われた?

氷には、食べる以外にも体や食品を冷やすという実用的な価値があります。

しかし、江戸時代を通じて、氷が医療や食品保存に広く利用されていたわけではありません。

そうした用途が商業的に注目されるようになったのは、特に幕末の開港以降です。

横浜などの外国人居留地では、やけどや熱病の治療に氷を必要とする外国人医師がいました。

さらに、飲み物を冷やしたり、肉などの食品を保存したりするためにも氷が求められました。

ところが、当時の日本には、大量の氷を安定して供給する商業的な流通網がまだ十分に整っていませんでした。

そのため、アメリカのボストンから天然氷を輸入することもあったのです。

魚や食べ物の保存には使われなかったの?

現在の魚市場では、魚を大量の氷で冷やして鮮度を保っています。

しかし、江戸時代の魚屋が、現代と同じように大量の氷を使って魚を保存していたわけではありません。

特に氷の供給が限られる地域では、食品の保存に大量の氷を使うことは難しかったと考えられます。

そのため、塩漬けや干物といった保存加工が重要な役割を果たしていました。

また、鮮魚を新鮮な状態で食べるためには、できるだけ短時間で消費地へ届ける必要がありました。

もっとも、江戸時代に魚の冷却へ氷が一切使われなかったと断定することもできません。

一部に例外的な利用があった可能性はありますが、現代のような氷を大量に使用する鮮魚流通が一般化したのは、氷の商業供給が発達してからのことです。

江戸時代の氷は偉い人しか食べられなかった?

ここまで紹介したように、氷は将軍への献上品にもなった貴重なものでした。

そのため、「江戸時代の氷は将軍や大名しか食べられなかった」と思う人もいるかもしれません。

しかし、これは正確ではありません。

江戸時代の氷の貴重さは、地域によって大きく違っていたからです。

都市の江戸では、夏の氷を手に入れるのが難しかった

現在の東京にあたる江戸は、人口の多い大都市でした。

しかし、夏になれば気温が上がり、自然の氷をそのまま手に入れることはできません。

夏に氷を使うためには、冬の間に保存しておくか、ほかの地域から運ぶ必要がありました。

氷室を維持するにも費用や手間がかかりますし、遠方から輸送すれば途中で溶けてしまいます。

このため、江戸市中では夏の氷が貴重になりやすい条件がそろっていました。

一方で、氷が将軍や大名以外の人々に一切渡らなかったと断定できるわけでもありません。

ただし、江戸市中で一般の町人がどれほどの頻度で氷を買ったり食べたりできたのかについては、十分な資料を確認できません。

そのため、江戸の町人が夏にかき氷を日常的に楽しんでいた、とまでは言えないのです。

雪国では庶民も夏の氷を楽しんでいた

一方、越後や信州など、冬に雪や氷を大量に確保できる地域では事情が異なります。

先ほど紹介した『北越雪譜』には、越後の茶屋で削った氷が提供されていたことが記されています。

つまり、少なくともその地域では、特別な身分でなくても店で氷を食べられる場合があったということです。

さらに、江戸時代後期の俳人・小林一茶は、1815年に次のような句を残しています。

「八文で家内が祝ふ氷かな」

八文という金額で手に入れた氷を、家族で喜んでいる様子がうかがえます。

もちろん、この句だけで当時の氷の販売状況をすべて説明できるわけではありません。

それでも、将軍や大名ではない人々が氷を楽しんでいたことを考えるうえで、興味深い記録です。

ただし、雪国であっても、夏の氷が誰でも無料で手に入るものだったわけではありません。

保存するための施設や手間は必要であり、庶民にとっても特別な楽しみだったと考えられます。

江戸時代の氷事情は、地域によって違った

ここまでの違いを整理すると、次のようになります。

地域氷の入手事情
江戸夏の天然氷は保存や輸送が必要。町人への普及度は不明
越後茶屋で削り氷を売っていた記録がある
信州小林一茶の句など、庶民が氷を楽しんだ手掛かりがある
加賀氷室に雪を保存し、藩の行事や献上などに利用した

つまり、江戸時代の氷を全国一律に「将軍だけの高級品」と考えるのは適切ではありません。

都市の江戸では貴重だった夏の氷も、雪国の一部では庶民が購入して楽しめる食べ物だったのです。

江戸時代の氷はいくらだった?

では、当時の氷はいったいいくらで売られていたのでしょうか。

これについても、どこで、どのような氷を買ったかによって事情が大きく異なります。

小林一茶の句に登場する「八文」の氷

江戸時代の氷の値段を知る手掛かりの一つが、先ほど紹介した一茶の句です。

「八文で家内が祝ふ氷かな」

この句には、八文という具体的な金額が登場します。

ただし、八文で購入した氷がどれほどの大きさだったのか、家族がどのように分けて食べたのかまではわかりません。

そのため、この句を根拠に「江戸時代の氷は一個8文だった」と説明するのは正確ではありません。

また、この金額を都市の江戸における氷の相場と考えることもできません。

地域や氷の量が異なれば、価格も変わる可能性があるからです。

現代のお金に換算するといくら?

では、小林一茶の句に登場する「八文」は、現代のお金でいくらくらいなのでしょうか。

江戸時代のお金を現代の円に正確に換算することはできませんが、当時の物価と比較すれば、おおよその価値を考えることはできます。

例えば、江戸時代中~後期のそばは1杯16文ほどでした。

つまり、8文はそば半杯分に相当します。

仮に現代のそばを1杯800円とすれば、8文は約400円という計算になります。

ただし、これはそばの価格を基準にした参考値です。米の値段や当時の賃金を基準にすると、換算額は変わります。

また、一茶が氷を購入した地域と、そば16文という価格が記録された江戸では、物価が同じだったとは限りません。

そのため、「江戸時代の氷は現代の400円だった」と断定することはできませんが、当時の金銭感覚を想像する一つの目安にはなるでしょう。

幕末には氷がビール箱1箱分で3両もした!

一方、幕末の横浜では、まったく違う価格の記録が残っています。

当時、横浜の外国人居留地などでは、アメリカから輸入した「ボストン氷」が使われていました。

これは、アメリカの寒冷地で採取した天然氷を、船で長距離輸送してきたものです。

しかし、輸送には長い時間がかかり、航海中にも大量の氷が溶けてしまいます。

そのため、価格は非常に高くなりました。

函館市史によると、ボストン氷はビール箱1箱分で3両もしたといいます。

ニチレイの氷業史でも、みかん箱やビール箱ほどの氷が3~5両したと紹介されています。

しかも、これは現代のように氷をいつでも買える状態とは、まったく異なる時代の話です。

輸入氷は一般庶民が気軽に購入できるような商品ではなく、外国人医師など、特別な需要を中心に流通していました。

ただし、ボストン氷の価格と、一茶の句に登場する八文を単純に比較することはできません。

氷の量だけでなく、産地や輸送距離、購入する地域もまったく違うからです。

むしろ、この二つの記録からわかるのは、同じ江戸時代でも、氷の入手条件によって価格が大きく異なっていたということです。

氷が庶民にも身近になったのはいつ?

雪国では江戸時代後期にも氷を食べる人々がいましたが、日本全国で氷が一般的な商品として広く流通するには、もう少し時間が必要でした。

その大きな転機となったのが、幕末から明治時代にかけての天然氷の商業化です。

ここで登場するのが、中川嘉兵衛という人物です。

嘉兵衛は、外国から輸入される高価な氷を見て、日本国内でもっと安く氷を供給できないかと考えました。

しかし、その挑戦は失敗の連続でした。

1861年に富士山麓で採氷を試みたものの、横浜へ運ぶ間にほとんどが溶けてしまいました。

その後も諏訪湖、日光、釜石など、さまざまな場所で採氷と輸送を試みますが、なかなか事業として成功しません。

いくら氷を採取できても、消費地まで運ぶ間に溶けてしまえば利益にならないのです。

函館の天然氷が日本の氷事情を変えた

何度も失敗を重ねた嘉兵衛がたどり着いたのが、北海道の函館でした。

函館の五稜郭には、冬になると堀に厚い氷が張ります。

さらに、函館には港があり、採取した氷を船で運び出すのにも便利でした。

1869年、嘉兵衛は五稜郭で約500トンの天然氷の採取と、本州への輸送・販売に成功します。

この氷は「函館氷」と呼ばれました。

それまで高価な輸入氷が中心だった市場に、国産の天然氷が登場したのです。

函館氷はボストン氷よりも安価で、商業的な成功を収めました。

やがて採氷量は増加し、保存施設や流通網も整備されていきます。

その結果、江戸時代には地域によって入手事情が大きく異なっていた氷が、明治時代には、より広い地域の人々へ届くようになりました。

氷水やかき氷を売る商売も発展し、氷は特別な献上品や一部地域の夏の楽しみから、一般の人々にも親しまれる商品へと変わっていったのです。

人工的に氷を作れるようになったのは?

さらに氷の普及を進めたのが、人工製氷技術の発展です。

1879年には横浜に機械製氷会社と製氷工場が設立されました。

それまでは、冬の寒さを利用して天然氷を作り、夏まで保存する必要がありました。

しかし、機械で氷を作れるようになれば、天然の氷ができる地域や季節への依存を減らせます。

こうして氷は、次第に人々の生活に欠かせないものになっていきました。

まとめ:江戸時代の氷は、場所によって貴重さが違っていた

冷蔵庫も冷凍庫もなかった江戸時代。

人々は冬にできた天然氷や雪を氷室に保存し、夏になるまで大切に残していました。

加賀藩では、金沢から江戸まで約480kmの距離を、わずか4日間で雪氷を運んだという伝承が残されています。

ただし、その輸送の詳しい実態には不明な点もあります。

一方、幕末の中川嘉兵衛の事例では、約100トンの氷が輸送中にわずか8トンになってしまったという記録もあります。

冷凍設備のない時代に氷を運ぶことが、どれほど難しかったのかがよくわかります。

また、江戸時代の氷は将軍や大名だけのものだったわけではありません。

都市の江戸では夏の氷を手に入れるのが難しかった一方、越後などの雪国では、庶民が店で削った氷を食べていた記録があります。

つまり、江戸時代の氷は全国どこでも同じような高級品だったのではなく、地域によって入手しやすさが大きく違っていたのです。

そして明治時代、天然氷の商業流通や人工製氷技術が発達すると、氷はより多くの人々が利用できる商品になっていきました。

今では冷凍庫を開けるだけで手に入る氷。

しかし昔の人々にとって、真夏のひとかけらの氷は、冬からの長い保存と、運搬する人々の苦労によって届けられる特別な存在だったのです。

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