【五九豪雪】日本全土を4ヶ月襲い続けて大被害を出した昭和の記録的大豪雪

自然

昭和59年(1984年)。バブル経済へと向かう足音が聞こえ始めた日本を襲ったのは、戦後最大級の「白い暴力」でした。 「59豪雪(ごじゅうきゅうごうせつ)」の名で知られるこの災害は、北陸や東北といった雪国だけでなく、太平洋側の都市部、さらには九州や四国までもが雪に沈み、日本列島が文字通り「凍結」した4ヶ月間の記録です。

冒頭に掲載した記録映画『59豪雪』に映し出されているのは、CGでも映画のセットでもない、かつての日本の日常です。高さ3メートルを超える雪の壁、雪に押しつぶされる大型トラック、そして生きるために火薬で雪山を爆破する自衛隊。

この記事では、この未曾有の豪雪がいかにして発生し、当時の人々がどのようにしてこの極限状態を凌いだのか、そして現在に語り継がれる教訓について、当時の膨大なデータと共にお伝えします。


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日本中が震えた「59豪雪」の凄まじさを物語る数値データ

まず、59豪雪がいかに異常な規模であったかを、具体的な数字で見てみましょう。この冬、日本は「雪」という重みと「低温」という刃によって、かつてない傷を負いました。

昭和59年豪雪による被害総数(全国)

項目数値備考
死者131雪崩、除雪中の事故、寒冷による衰弱など
負傷者1,366転倒や除雪作業中の負傷が中心
住家全壊61雪の重みによる家屋倒壊
住家半壊128構造被害を受けた家屋
浸水被害922春先の融雪による出水被害を含む

最深積雪ランキング(1984年2月時点の主な記録)

この年は、北陸地方の市街地で戦後最高記録を塗り替える地点が続出しました。

  • 新潟県上越市(高田):324cm(戦後第1位の記録)
  • 新潟県長岡市:188cm
  • 鳥取県鳥取市:114cm(日降雪量として異例の記録)
  • 東京都新宿区:22cm(都心部でも大パニックに)
  • 愛媛県松山市:14cm(南国での記録的な積雪)

冷凍庫と化した日本:記録的な低温

59豪雪のもう一つの特徴は、雪が溶けないほどの「異常な低温」です。

  • 兵庫県篠山市:マイナス14.0(2月7日)
  • 京都府京都市:マイナス5.8
  • 岡山県岡山市:マイナス9.1

西日本でもマイナス10度前後に達する地点が多く、2月初旬の10日間は「日本列島が冷凍庫に閉じ込められた」と表現されるほどの寒気が居座りました。これにより、一度積もった雪が岩のように凍りつき、除雪をさらに困難なものにしたのです。


三八豪雪(昭和38年)との比較:なぜ59豪雪は特別だったのか

「昭和の豪雪」と言えば、必ずと言っていいほど比較に出されるのが、昭和38年の「三八豪雪(さんぱちごうせつ)」です。しかし、この二つには大きな違いがあります。

三八豪雪 vs 五九豪雪 比較表

項目三八豪雪(1963年)五九豪雪(1984年)
主な特徴北陸地方に集中した「局地的」豪雪日本列島全体を襲った「広域的」豪雪
積雪のピーク1月末に集中12月から3月までダラダラと長期間継続
気温平年並みかやや低い極めて低い(戦後屈指の寒冬)
主な被害原因交通(鉄道)の完全麻痺建物の倒壊、雪崩、全国的な都市麻痺
社会への影響鉄道輸送の限界を露呈粉塵公害、全国的な流通ストップ

三八豪雪が「北陸を狙い撃ちにした短期間の集中豪雪」だったのに対し、五九豪雪は「全国が数ヶ月にわたって極寒と大雪にさらされ続けた」という、持続的なダメージが特徴でした。特に3月に入っても雪が降り止まなかったことは、当時の人々の精神を激しく摩耗させました。


雪を「白い粉塵」に変えたスパイクタイヤの公害

59豪雪が現代の交通システムに遺した最大の教訓の一つが、スパイクタイヤによる公害です。

当時の記録映画では、3メートルを超える雪の壁に挟まれた国道17号線の様子が映し出されています。しかし、問題は雪の量だけではありませんでした。 連日の低温で路面がアイスバーン化し、そこを数万台の車が金属鋲のついたスパイクタイヤで走り続けた結果、アスファルトが無惨に削り取られたのです。

  • 路面の損傷: アスファルトが削れて穴だらけになり、補修してもすぐに剥がれる悪循環に陥りました。
  • 黒い粉塵: 削られたアスファルトが粉末となって空中に舞い、雪国の空は真っ黒に汚れました。洗濯物は外に干せず、多くの住民が呼吸器系の不安を訴えました。これが後のスパイクタイヤ禁止へと繋がる大きな契機となりました。

莫大な代償:8億円超の除雪費用と救助の舞台裏

降りしきる雪から市民の生活を守るため、国や自治体は総力を挙げて対応しました。しかし、そのために支払われたコストもまた、歴史的な規模でした。

長岡国道工事事務所による除雪の記録

新潟県内の大動脈である国道17号線などを管理する長岡国道工事事務所では、この冬だけで以下のリソースが投入されました。

  • 除雪費用:84,200万円(現在のおよそ11億円)
    • ※1984年の消費者物価指数を基に、2024年現在の価値に換算(約1.3倍)。
  • 1kmあたりの除雪費:383万円
  • 除雪車両:数百台が24時間体制でフル稼働

この「11億円」という数字は、あくまで一つの事務所が管理する区間(約220km)だけの話です。全国の自治体や道路管理者が費やした総額は、計り知れない額に上ります。

命を救うための「軍事作戦」:自衛隊の出動

行政の力だけでは対応できない「陸の孤島」と化した集落を救ったのは、自衛隊でした。 雪崩の危険がある斜面に対し、自衛隊員が火薬を仕掛け、爆破して意図的に雪を落とす「人工雪崩」作業は、文字通り命がけの任務でした。また、ヘリコプターによる食料や医薬品の空輸、病人の搬送は、多くの人命を繋ぎ止める最後の砦となりました。

記録によれば、全国で派遣された自衛隊員は延べ数万人に達し、彼らの活動がなければ、死者数は131名という数では収まらなかったと言われています。


雪に埋もれた120日間、人々はどう凌いだのか?

極限状態の中、当時の人々はどのようにして生き延びたのでしょうか。そこには、現代の私たちが忘れてしまった「知恵」と「隣人への想い」がありました。

2階から出入りする「垂直生活」

積雪が3メートルを超えると、1階の玄関や窓は完全に雪に閉ざされます。多くの家庭では、2階の窓を「仮の玄関」として使用しました。 朝起きるとまず2階の窓から外の様子を確認し、屋根から地面まで緩やかな雪の階段を作って外へ出る。家の中に閉じ込められた高齢者のために、近所の若者が屋根から穴を掘って救出に向かう。そんな光景が日常茶飯事でした。

住民総出の「雪下ろし」

当時は現代のように融雪設備が整っていませんでした。放置すれば家が潰れるため、人々は毎日屋根に登り、雪を地上へ投げ落とし続けました。 しかし、落とした雪がさらに1階を埋め尽くすため、その雪をまた別の場所へ運ぶという、終わりのない重労働。 ある被災者は当時の日記にこう記しています。

「雪を掘るのではない。命を掘っているのだ。明日、この家が残っているか、誰にもわからない」

住民総出の「雪下ろし」

物流が止まり、スーパーから品物が消えた際、人々を救ったのは地域コミュニティの備蓄でした。 「うちは米があるから、お宅の灯油と分けてくれないか」といった物々交換や、炊き出しが自然発生的に行われました。雪に閉ざされた孤独な環境だからこそ、人々は互いの存在を確かめ合うようにして生き延びたのです。


59豪雪が遺した亡くなった原因と、現代への教訓

131名の犠牲者。その原因を分析すると、現代の私たちへの重要な警告が見えてきます。

主な死亡原因の内訳

  1. 除雪作業中の事故(約半数): 屋根からの転落、落雪による生き埋め、心臓発作。
  2. 雪崩による被害: 柵口(ませぐち)地区の大規模雪崩など、不意を突く自然の猛威。
  3. 都市部での事故: 雪に慣れない地域での転倒、アーケードの崩落など。

亡くなった131名のうち、多くが**「屋根の雪下ろし中の転落」「軒下での生き埋め」**でした。 「雪から家を守るための作業」が、結果として命を奪う。この悲劇は現代でも繰り返されています。

また、新潟県糸魚川市の柵口(ませぐち)地区で発生した大規模雪崩では、コンクリート校舎をもなぎ倒す威力で13名の命が奪われました。雪は単なる障害物ではなく、凶器そのものだったのです。

59豪雪は、除雪がいかに過酷で危険な「作業」であるかを、131名という犠牲をもって日本に教えました。


昭和の記録を未来へ:私たちができること

40年前の冬、日本は確かに雪に敗れかけました。しかし、そこから立ち上がり、世界屈指の除雪技術や防災システムを築き上げてきました。 冒頭の動画『59豪雪』に映る、雪と戦う先人たちの姿を見て、あなたは何を感じましたか?

「昔は大変だったね」で終わらせてはいけません。 異常気象が日常化しつつある今、59豪雪のような「想定外」は、いつ私たちの目の前に現れてもおかしくないのです。

  • 家族で避難場所を確認する。
  • 数日分の食料と燃料を備蓄しておく。
  • 地域のコミュニティとの繋がりを大切にする。

昭和の人々が極限状態の中で見せた「備え」と「協力」の精神こそが、私たちが令和の冬を安全に過ごすための最大のヒントなのかもしれません。

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