※犯人を撮影した写真ページへのリンクは「執念の追跡」パートにあります
2009年、サンフランシスコ。写真家として活動していたジェサミン・ロベルの人生は、ある一瞬の隙から劇的に変貌してしまいました。
悪夢の幕開け:サンフランシスコの美術館で消えた「私」

場所はサンフランシスコ近代美術館。芸術に囲まれた穏やかな空間で、彼女は自分のバッグから財布が抜き取られたことに気づきます。
中には現金だけでなく、クレジットカード、そして自身の存在を証明する運転免許証が入っていました。「最悪だ」――その時は誰もが経験しうる不運な盗難事件として、彼女は警察に被害届を出しました。しかし、これが単なる窃盗では終わらない、数年間にわたる壮絶なアイデンティティ争奪戦の始まりだったのです。
自分が知らない自分の犯罪:届き続ける「身に覚えのない」請求書

事件から1年半が経過した頃、ジェサミンのもとに不気味な現象が起こり始めます。身に覚えのないホテルの宿泊費、万引きの罰金、そして何より恐ろしいことに、警察からの「出廷命令」が次々と届くようになったのです。
何が起きているのか? 調査を進めた彼女が辿り着いた事実は、戦慄すべきものでした。財布を盗んだ犯人であるエリン・ハーツ(Erin Hart)という女が、ジェサミンの運転免許証を使い、文字通り「ジェサミン・ロベル」として生活していたのです。
エリンはジェサミンの名前で万引きをしては逮捕され、警察にジェサミンのIDを提示していました。驚くべきことに、エリンはジェサミンの顔写真に寄せるために自分の髪を同じスタイルにカットし、外見まで「なりすまして」いました。警察の記録に残された犯人の顔写真を見たとき、ジェサミンは鏡の中の歪んだ自分を見ているような、言葉にできない恐怖を感じたと言います。
警察の無力と怒りの決断:被害者は「探偵」へと変貌する

ジェサミンは警察に必死に訴えました。「その犯罪を犯したのは私ではない、この女が私になりすましているんだ」と。しかし、巨大な司法制度の中で、一人のアイデンティティ盗難被害者の声は、驚くほど軽く扱われました。警察は「現行犯でない限り、すぐには動けない」という一点張り。
自分の名前が汚れ、クレジットスコア(社会的信用)が崩壊していくのを、ただ指をくわえて見ていることしかできないのか? 裁判所の階段を降りる際、彼女は怒りで体が震え、涙が止まりませんでした。その瞬間、彼女の中で何かが弾けます。
「警察がやらないなら、私がこの女を追い詰めてやる」
ジェサミンは写真家としてのキャリアを一時中断し、なんと「私立探偵学校」に入学します。プロの探偵から尾行術、監視のテクニック、情報の収集方法を学び、彼女は「カメラ」を芸術の道具から、真実を暴くための「武器」へと持ち替えたのです。
【解説:アイデンティティ・セフトの脅威】 アイデンティティ・セフト(身分詐称・なりすまし)は、単にお金を盗まれる以上のダメージを被害者に与えます。一度システムに記録された「犯罪歴」や「不払い記録」を消去するには、膨大な時間と法的労力が必要となります。ジェサミンの場合、犯人が物理的に自分に似せてきたことで、その恐怖は精神的な領域にまで達していました。
執念の追跡:レンズ越しに捉えた「もう一人の自分」の正体

探偵としてのスキルを身につけたジェサミンは、独自の調査でエリン・ハーツがよく出没する場所を特定します。サンフランシスコの安宿やコインランドリー。彼女は車の中に何時間も潜み、望遠レンズを構えて「自分自身」を盗んだ女が現れるのを待ち続けました。
ついにレンズがエリンを捉えた瞬間、ジェサミンは奇妙な感情に襲われます。そこにいたのは、自分の名前を使って優雅に暮らす悪女ではなく、社会の境界線上で生きる、疲弊し、家も持たない一人の女性の姿でした。
彼女は、エリンがゴミ箱を漁る姿、街角で佇む姿、そして警察に再び連行される瞬間までを、冷徹に、かつ情熱的に記録し続けました。監視カメラのように、しかしそこには写真家としての鋭い視座が混じり合っていました。
彼女が作成したプロジェクト「Dear Erin Hart(親愛なるエリン・ハーツへ)」の全容は、彼女の公式サイトで確認することができます。そこには、盗まれた免許証、偽造された署名、そして執念の尾行で捉えたエリンの姿が、生々しくアーカイブされています。
※自身のウェブサイトで公開したエリン・ハーツの写真ページに飛びます
衝撃のクライマックス:加害者に贈られた「招待状」

ジェサミンはこの一連の追跡劇を、単なる復讐で終わらせませんでした。彼女はこれを「アート」として昇華させることを決意します。
2014年、サンフランシスコのギャラリーで、彼女の個展『Dear Stranger,』が開催されました。会場の壁を埋め尽くしたのは、エリン・ハーツが「ジェサミン・ロベル」として生きた証拠の数々。監視写真、警察のレポート、そして巨大に引き伸ばされたエリンの顔写真。
そして、伝説となった瞬間が訪れます。展示の初日、ジェサミンはエリンの居場所を突き止め、彼女の前に直接姿を現しました。数年間、自分の人生を滅茶苦茶にした女。恐怖と怒りの対象であった存在。
ジェサミンは震える手で、彼女に一通の封筒を差し出しました。 「私はジェサミン・ロベル。あなたが私になりすました期間の記録を、今、ギャラリーで展示しています。これはその招待状です」
エリンは言葉を失い、ただ呆然としていたと言います。ジェサミンにとって、それは暴力的な復讐よりもはるかに強力な、アーティストとしての「勝利」の瞬間でした。自分の名前を、自分の人生を、自らの表現によって奪還したのです。
結び:私たちは「自分」をどう守るべきか
この物語は、一人の写真家の奇妙な体験談に聞こえるかもしれません。しかし、ジェサミン・ロベルが問いかけているのは、私たちが生きる現代社会の脆弱さそのものです。
免許証一枚、パスワード一つで、誰かがあなたになり代わり、あなたの名前で罪を犯すことができる世界。ジェサミンは、その悪夢に対して「屈しない」という選択をしました。
「彼女は今、私の人生の一部になってしまった。不気味だけれど、それが現実」と、彼女は動画([00:01:58])で語っています。
彼女のプロジェクトは、監視社会におけるプライバシーの在り方、そして「自分を証明する」ということの重みを、私たちに突きつけています。もし明日、あなたのポストに「見知らぬ自分の犯罪」を知らせる手紙が届いたら――あなたなら、どうしますか?


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