人間は食べ物を一切食べなかったら、何日くらい生きられるのでしょうか。
数日ならともかく、数週間、あるいは1か月となれば命に関わるように思えます。
ところが1960年代のスコットランドには、382日間にわたって固形物を一切食べなかった男性がいました。
その男性の名前は、アンガス・バルビエーリ(Angus Barbieri)。
当時27歳だったバルビエーリは、医師の監督下で1965年から1966年にかけて断食を続けました。その期間は実に382日。1年を超えています。
1973年に医学誌『Postgraduate Medical Journal』に掲載された症例報告によると、断食開始時の体重は456ポンド(約207kg)。終了時には180ポンド(約82kg)となり、約125kgもの減量となりました。
これは単なる都市伝説ではありません。血液検査などの記録が医学論文として残されており、ギネス世界記録にも「食物なしで生存した最長期間」として掲載されています。
では、なぜ彼は382日もの断食をすることになったのでしょうか。
なぜ382日もの断食をすることになったのか

もともとは重度の肥満を治療するためだった
バルビエーリが断食を始めた目的は、記録への挑戦ではありませんでした。
約207kgあった体重を減らすための肥満治療として始めたものです。
現在では驚くような治療法ですが、1960年代には重度の肥満患者に対する「治療的断食(therapeutic fasting)」が医学的に研究されていました。
摂取するエネルギーを極端に減らし、体内に大量に蓄えられている脂肪をエネルギーとして利用させようという考え方です。
もちろん、最初から「1年間食べない」という計画だったわけではありません。
最初から382日間の予定ではなかった
1973年の症例報告には、当初はこれほど長期間の断食を行う予定ではなかったことが記されています。
ところがバルビエーリは断食によく適応し、本人も自分の「理想体重」に到達するまで続けることを強く希望しました。
そのため医師たちは健康状態を検査しながら断食を継続。
結果として、
短期間の断食の予定 → 本人が継続を希望 → 医師の監視下で続行 → 目標体重まで続ける → 382日
という、とてつもない長期断食になったのです。
つまり「人間が何日食べずに生きられるか」を調べるために始めた人体実験ではなく、肥満治療として始めた断食が結果的に世界記録になったというわけです。
本当に382日間「何も食べなかった」のか

ここで注意したいのが、「382日間飲まず食わずだった」という意味ではないことです。
水やお茶、コーヒーなどは飲んでいた
バルビエーリは固形物を食べませんでしたが、水分は摂取していました。
認められていたのは、水、お茶、コーヒー、炭酸水などの基本的にカロリーを含まない飲み物です。
水まで飲まない絶食であれば、当然これほど長く生存することはできません。
ギネス世界記録でも、バルビエーリが382日間「固形物を食べなかった」記録として紹介されています。
ビタミンなども補給していた
さらに、ただ水だけで382日間生活していたわけでもありません。
医学論文によると、ビタミン類や酵母が与えられ、必要に応じてカリウムやナトリウムなども補給されました。
ただし、電解質を382日間ずっと補給していたわけではありません。
カリウムが投与されたのは93日目から162日目まで、ナトリウムは345日目から355日目まででした。
つまりバルビエーリの断食は、
「身体に何も入れない完全な絶食」ではなく、「食物からカロリーをほぼ摂取せず、必要な栄養素などを補いながら行われた長期断食」
と考えたほうが実態に近いでしょう。
なぜ人間が382日も食べずに生きられたのか

それでも疑問が残ります。
食事からエネルギーを得ていないのに、なぜ1年以上も生きることができたのでしょうか。
大きな理由は、バルビエーリ自身の身体に大量のエネルギーが蓄えられていたことです。
体脂肪は身体に蓄えられたエネルギー
私たちが普段「脂肪」と呼んでいるものは、単なる余分な肉ではありません。
体脂肪には、食べ物を得られないときのためにエネルギーを蓄えておくという重要な役割があります。
食事から十分なエネルギーが入ってこなくなると、身体は蓄積している脂肪を分解してエネルギー源として利用するようになります。
バルビエーリの場合、開始時の体重は約207kg。
身体には非常に大きなエネルギーの備蓄があったことになります。
実際、後年の肥満研究でもバルビエーリの症例は、体脂肪量が長期飢餓における生存期間を左右する極端な例として取り上げられています。
脳もケトン体を利用するようになる
食事をしなくなると、まず身体は蓄えられているグリコーゲンなどを利用します。
しかし、それだけでは長期間もちません。
絶食が続くにつれて脂肪の利用が増え、肝臓では脂肪から「ケトン体」が作られるようになります。
普段、脳はブドウ糖を主要なエネルギー源として利用していますが、長期間の絶食状態ではケトン体を大きく利用できるようになります。
これによって身体は、食物から糖質が入ってこない状況でも、蓄積していた脂肪を利用して生命活動を維持できるようになります。
脂肪だけを燃やしていたわけではない
ただし、「207kgあったから余った脂肪だけを125kg燃やした」と考えるのも正確ではありません。
長期絶食では脂肪だけでなく、身体を構成する組織にも変化が起こります。
バルビエーリの症例でも、断食100日以降には尿中へのミネラルなどの排泄量が増加しました。
研究者らは、過剰な軟部組織や骨格組織の減少が関係していた可能性を指摘しています。
人間の身体は単純な「脂肪タンク」ではないのです。
断食中、身体には何が起きていたのか

382日という異常に長い断食だっただけに、バルビエーリの身体には通常ではなかなか見られない変化も記録されています。
血糖値は驚くほど低くなった
特に興味深いのが血糖値です。
医学論文によると、断食最後の約8か月間には、血糖値が30mg/dL前後という非常に低い状態が繰り返し記録されました。
通常であれば深刻な低血糖が心配される数値です。
ところがバルビエーリは歩行可能で、外来患者として通院を続けていました。
これは「血糖値30mg/dLでも安全」という意味ではありません。
長期間の絶食によって身体が特殊な代謝状態に適応し、ケトン体などをエネルギー源として利用していた特殊な症例として見る必要があります。
排便は37~48日に1回
さらに驚くのがトイレ事情です。
食べ物がほとんど入ってこないため、当然ながら便の量も極端に少なくなりました。
論文によれば断食後半には、排便と排便の間隔が37~48日に達することもありました。
1か月以上便が出ないという、通常の食生活では考えにくい状態です。
1年間ずっと入院していたわけではない
382日間ずっと病院のベッドに寝たまま、医師に監視されていたと思うかもしれません。
しかし実際には、最初こそ病院で治療を受けていたものの、その後は大部分の期間を自宅で過ごしていました。
定期的に外来を受診し、血液や尿などを検査するという生活です。
採血はおよそ2週間に1回行われていました。
「病院に閉じこもって1年間絶食した」のではなく、自宅で生活しながら382日間食べなかったという点も、この記録の驚くべきところでしょう。
382日ぶりに食べたものは何だったのか
1年以上食事をしていなかったとなれば、断食終了後に何を食べたのかも気になるところです。
報道によると、バルビエーリが久しぶりの固形食として口にしたのは、ゆで卵とバターを塗ったパンでした。
382日ぶりの食事と聞くと豪華な料理を想像してしまいますが、意外なほど質素です。
ギネス世界記録が紹介している当時の報道によれば、バルビエーリは長期間食べなかったため食べ物の味を忘れてしまったとも話しており、久しぶりの食事を楽しんだとされています。
125kg痩せたあとリバウンドしなかったのか
これだけ急激に痩せれば、
「その後すぐに元の体重へ戻ったのでは?」
と思う人もいるでしょう。
ところが、この点もバルビエーリの症例の興味深いところです。
断食終了時には約82kgまで減量しましたが、医学論文では**約5年後でも196ポンド(約89kg)**だったと報告されています。
少なくとも医学的な追跡記録が残っている期間では、207kg近くまで戻るような大幅なリバウンドは起こしていませんでした。
なお、体重については資料によって違いがあります。
1973年の医学論文では「207kgから約82kg」と記録されている一方、現在のギネス世界記録公式サイトでは「214kgから80.74kg」とされています。
この記事では、実際に治療を担当した医師らが発表した医学論文の数値を基準としています。
では肥満の人なら長期間断食しても大丈夫なのか
ここまで読むと、
「体脂肪が十分にあるなら、食べなくても脂肪を使えばいいのでは?」
と思うかもしれません。
しかし、バルビエーリの例からそう結論づけることはできません。
長期断食は安全なダイエット方法ではない
バルビエーリは極めて特殊な成功例です。
断食中には血液や尿を定期的に検査し、ビタミンなどを摂取し、必要に応じて電解質も補給されていました。
それでも血中マグネシウムの低下や、一時的な高カルシウム血症などの変化が確認されています。
また、当時研究されていた長期の治療的断食では死亡例も報告されています。
「382日成功した人がいる」という事実は、「382日間の断食が安全」ということを意味しません。
長期間の絶食後は「食べること」にも危険がある
長期間ほとんど食事をしていなかった人が、突然大量の食事をすると危険な場合があります。
代表的なのが「リフィーディング症候群」です。
長期間の低栄養状態から急に栄養を摂取すると、体内の電解質バランスなどが急激に変化し、重症の場合には心臓や呼吸器などに重大な問題を起こすことがあります。
つまり極端な長期断食では、食べない期間だけでなく、再び食べ始める段階にも医学的な注意が必要なのです。
バルビエーリの記録は、自己流で長期断食を試しても安全だという根拠にはなりません。
まとめ 世界最長382日の断食は特殊な医学的事例だった
1965年、重度の肥満だった27歳のアンガス・バルビエーリは、減量治療として断食を始めました。
当初から1年間続ける予定だったわけではありません。
本人が断食によく適応し、目標体重まで続けることを希望した結果、最終的な断食期間は382日に達しました。
医学論文の記録では体重は約207kgから約82kgとなり、およそ125kg減量しています。
これほど長期間食事をしなくても生存できた背景には、大量に蓄積されていた体脂肪をエネルギー源として利用できたこと、長期絶食に身体が適応してケトン体を利用するようになったこと、ビタミンなどの補給を受けていたこと、そして医師による定期的な検査がありました。
血糖値が30mg/dL前後まで低下した状態で外来通院を続け、排便の間隔が37~48日に達したこともあるなど、382日間の記録には人間の身体が飢餓状態に適応する驚くべき能力が表れています。
一方で、これは誰でも再現できる安全なダイエット方法ではありません。
「人間は1年間食べなくても平気」なのではなく、極度の肥満という特殊な条件にあった一人の男性が、医学的な監視を受けながら382日間の断食を完遂した極めて珍しい症例だったと考えるのが適切でしょう。


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